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楠本イネ

楠本イネ
楠本イネ
 日本人女性で初めて西洋医学を学んだ産科医。オランダ商館医として出島に赴任したドイツ人、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと楠本たきの娘である。

イネの幼少時代

 丸山町引田屋の遊女であった母、たきは源氏名「其扇(そのぎ)」として、出島に出入りし、シーボルトお抱えとなり、イネは彼との間に私生児として出生した。イネは祖父佐兵衛の住む長崎銅座町で生まれ、シーボルト国外追放まで、出島で育った。父シーボルトは文政11年(1828年)、5年の任期を務め、帰国しようとした船が暴風のため大破し、そこから国外持ち出し禁止の日本地図、葵の紋章のついた衣類等が見つかったため (シーボルト事件)、イネが2歳7ヶ月の時に国外追放となった。父と別れたイネは、母たきの叔父の家に移り、その後、たきが回漕業者俵屋時次郎と再婚したため、イネも母と一緒に移り住んだ。

医学を目指して

 イネは、シーボルト門下の伊予宇和島の二宮敬作から医学の基礎を学び、二宮からの薦めもあり、岡山の石井宗謙の元へ行き産科を学んだ。その後嘉永4年(1851年)から3年間、長崎で医者をしながら安部魯庵に産科を学んだが、嘉永5年に宗謙の子供を出産している。娘でただ(後にたかと改名)といい、イネは私生児としてたかを育てるが、これはイネにとって無念なできごとであったと思われる。この時期に村田蔵六(後の大村益次郎)が長崎を訪れ、一緒に宇和島の二宮敬作のもとへ再度勉学に行った。村田からはオランダ語を学んだという。

父シーボルトとの再会

 安政5年(1858円)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、安政6年7月、シーボルトは祖国で結婚してできた長男、アレキサンダーを連れて再び日本へやってきた。たき、イネ、たか、弟子の二宮敬作はそれぞれの思いをもって彼を迎え入れた。歳月の重みは当初の喜びとは違った感情も生まれさせたことも想像に難くないが、イネが、ポンペ、ボードエン、マンスフェルトに産科・病理学を学ぶことができたのは、シーボルトのおかげだった。
 父シーボルトは、長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や娘・イネと交流し日本研究を続け、幕府に招かれ外交顧問に就き江戸でヨーロッパの学問なども講義しているが、慶応2年(1866年)アレキサンダーを残して長崎を去った。

イネがもっとも活躍したとき

 明治2年(1869年)に母たきが他界。イネは東京府京橋区築地1番地で産科を開業し、明治3年から10年まで東京で暮らした。明治6年には福沢諭吉の推薦により明治天皇の典侍葉室光子のお産に携わるなど、その医学技術は高く評価された。その後、明治8年(1875年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、明治10年に東京の医院を閉鎖、郷里・長崎に帰郷した。

イネの晩年

 明治17年(1884年)、銅座町55番地で産婆として再出発するため、長崎県令に長崎区長を通して産婆御免許鑑札願いを出して開業した。62歳の時、娘たか一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。明治36年(1903年)、食中毒のため東京市麻布区板倉町77歳の生涯を閉じた。墓は長崎市晧台寺の楠本家の墓地にあり、母たきと恩師二宮敬作と一緒に眠っている。

 イネは幕末から明治にかけての波乱の中、混血児というハンディを負いながら、また未婚の母という当時ではたいへんな境遇の中、もっとも困難な医学の道に進み、オランダ語も習得し、その道を究めた。

 彼女の意志の強さや困難に立ち向かう気力は、今を生きる私たちに勇気を与えてくれる。

 

イネゆかりの地を歩く