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大浦お慶

大浦お慶
大浦お慶
 お慶は文政11年(1828)6月19日、油屋町にある長崎でも屈指の油問屋「大浦屋」に生まれた。油屋町は名の通り油商いの盛んな町で、「大浦屋」はその中でも中心的存在だった。幼少の頃のお慶は、裕福な商家の娘として幸せなときを過ごしたことだろう。
 しかし、幕末になると大量の輸入油に押され、油屋町のどこの油商も経営難に陥り、「大浦屋」も例にもれず傾いていった。また、天保14年(1843)、お慶が16歳のとき、油屋町を含む526戸が焼失する大火に見舞われ、大浦屋も大きな痛手を被った。困難な時代のなか、お慶は大浦家の再興のためだけに青春時代を費やしたと思われる。
 そこで、お慶は油商に見切りをつけ、茶の輸出を計画したのだった。

お慶ゆかりの地を歩く

長崎における茶の歴史

 長崎におけるお茶の歴史は古く、平安時代末期、遣唐使の時代に禅僧・栄西が大陸から平戸の地に禅とお茶を持ち帰ったのがはじまりで、それらが後に本格的なお茶の栽培として、全国各地に広まったといわれている。
 
  特に15世紀に釜煎りによる製茶法が西九州に伝えられると、東彼杵町で盛んに栽培されるようになり、その後、元禄年間(1688〜1704)に大村藩主の奨励によって栽培が拡大し、茶業の基礎が作られた。茶産業は、輸出に端を発し今日の発展を見せている。
 日本茶が海外へ輸出されたのは、平戸に来航したオランダ東インド会社によってヨーロッパに向け船積みされたのが最初で、鎖国時代、唯一の窓口だった長崎からオランダ人によって日本茶が世界へ伝わっていった。
 そして、幕末から明治にかけては、九州各地の釜煎り製玉緑茶が集められ、長崎から盛んに輸出された。

お慶と茶貿易

 お慶は嘉永6年(1853)、阿蘭陀通詞の品川藤十郎の協力を得て、出島のオランダ人・テキストルという人物に佐賀の嬉野(当時の肥前国藤津郡嬉野)の茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ってもらった。この茶の見本は、上中下の等級に分けて梱包され送られたという。海外へ見本を送るという当時では斬新な発想と等級別に梱包するという細やかな心配りを持った女性であるということがわかる。
  それから3年後の安政3年(1856) 、見本を見たイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルトが来崎。彼がお慶に大量の茶を注文するようになってから、お慶の茶貿易は順調に発展していく。
 
 当初、オルトからの発注を受け、お慶は一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカへ輸出したのだという。 1万斤は普通6トンだが、お慶自身の記述には1斤約930グラムとあり、1万斤は9.38トンに及ぶことになる。巨額の注文に嬉野産の茶だけでは応じきれず、お慶は九州一円の茶の産地を駆け回り、やっと1万斤をアメリカへ向け輸出させ、これが日本における本格的製茶輸出貿易の先駆けとなった。
 
 お慶が手掛けた嬉野茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、 お慶は30代にして茶貿易商として莫大な富みを得たのだった。
 安政6年(1859)、長崎・横浜・函館の三港が開港し、以後自由貿易の時代がはじまると、長崎からは嬉野茶6トンを含み年間約240トンが輸出されていた。その後アメリカで南北戦争が起こり、お茶の輸出は一時停滞するが、戦争終結と共に需要が飛躍的に増大し、慶応2年(1866)長崎港からの輸出はピークに達した。
 お慶が茶貿易商として成功した時期は、幕末の動乱期と重なる。この時期に長崎に集まった多くの人々、その中には志士と呼ばれる人たちもいただろう。彼らが彼女を頼り、交流があったことは想像に難くない。
 当時の女性としては珍しく外国人を相手に商売で成功したお慶は、国際感覚を持ち合わせ、なおかつ商才にたけていたに違いない。

波乱の人生(後半)

 お茶の大産地静岡を控えた横浜港からの輸出が急速に伸びていった1860年代後半、お慶の茶の輸出は徐々に衰退の兆しを見せはじめる。開港とともに長崎港の特権的な立場がなくなったことと、外国人には、九州産の釜煎り茶より静岡産の蒸し茶の方が好まれたことによる。
 この頃からお慶も新しい商取引を模索しはじめていたようだが、明治4年(1871)、熊本藩士・遠山一也から煙草の取引と偽られ、オルト商会から手付金三千両を受けとる保証人になったことで裁判沙汰へと巻き込まれる。お慶はただ連判したという理由によって千五百両近い賠償金の支払いを命じられる。
 これがいわゆる遠山事件で、この事件にはお慶の製茶貿易商としての道を切り開く際に力を貸した阿蘭陀通詞・品川藤十郎が関与していた事実が後の研究によって明るみに出てきている。その上、騙した側が士族や役所関係者だったため結果的にお慶一人が不当な責任を負わされることになり、大浦家は没落の道をたどり、事業に失敗。長崎の豪邸の一つに数えられていた旧家は人手に渡ることになる。
 お慶は判決後、品川藤十郎を告訴する口上書を県に提出している。県はこの告訴を無視して取り上げなかったが、お慶の公正な裁判を望む心情が切々と伝わってくる。 
 明治17年(1884)4月、明治政府はお慶に対し、茶輸出を率先して行った功績を認め、功労賞と金二十円を贈っている。しかし、そのときお慶は危篤状態にあったのだという。4月6日お慶のもとに県の使者が出向いた日から一週間後の13日、お慶は57歳の生涯を閉じた。
  墓は、お慶ゆかりの聖天堂がある清水寺本堂から100m程上った高平町の高台にある。11基カギ型に並んだ大浦家の墓碑のなかで、お慶の墓が一番新しく、生年と没年の月日が刻んである。

 

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